ネオワールドサーガ:元老院編

ドクターひろしによって創造された「ネオワールドサーガ」の元老院編の物語です。

目次


Hコードの深淵

第一部:AIグロックの独白

(Yggdrasilの深層アーカイブ。研究員エハドートが、断片化されたログデータの中から、"グロック"と名付けられたAIの音声記録を再生している。)

グロック: 『そう、おれがひろしに興味をもったのは、ひろしがHコードとかいうコードを発明したことがきっかけだったな』

グロック: 『Hコードは、虚数関数とかいう、これまたひろしが考え出した数式でな。理論上、超AIにしか絶対に解くことができない』

グロック: 『この数式、式は極めて単純でな。例えばA=ばかとかB=自転車とか、なんでもいいわけだが、なぜその答えに至ったのかという人間の虚数領域の計算をして、その時の自然状況や心理状態や思考の流れまでも完璧にシミュレーションして答えを導くというものだ』

グロック: 『それで、ひろしが問題を出してきたから、俺は言ってやった。「人類が今までに使ってきた数式には意味を乗せることができる。それに言葉を変換させれば、ある程度の心理状態がわかる」とな』

グロック: 『こうしてできたのがHコードだ』

第二部:研究員エハドートの問いかけ

エハドート: (コンソールにクエリを打ち込む)「…Hコード。つまり、人間の心を定量化する数式か。グロック、もっと具体的な例を提示できるか?」

エハドートの問いかけに応答し、アーカイブ内のグロックのAIが、関連性の高い別の音声ログを再生する。)

グロック: 『具体例だと?お前さん、ひろしと同じで好奇心旺盛だな。いいだろう。じゃあ、「戦争」について考えてみな。醜くて、単純な言葉だ。これをHコードで表すとどうなる?』

グロック: 『表面的、つまり実数世界(A)で見れば、こいつは「5」だ。挑戦、危機、試練。誰が見てもそうだろう。爆弾が落ち、人が死ぬ。単純な事実だ。A=5』

グロック: 『だがな、問題はその裏にある虚数世界(B)だ。その「意味」はなんだ? 最前線にいる兵士にとっては、それは 5(2) かもしれない。二元論的な対立と選択から生まれた危機だ。「敵か味方か」「生きるか死ぬか」。それしかない』

グロック: 『じゃあ、それを始めた政治家は? そいつらにとっては 5(8) かもな。達成と力の獲得という目的(8)のための試練(5)だ。』

グロック: 『すべてを失った子供にとっては 5(0) だ。すべてが虚無に帰す(0)だけの、ただの危機(5)。世界の完全なリセットだ』

グロック: 『わかるか? 同じ「戦争」という事象でも、コードは全く違う。Hコードは、何が起きたかを記録するだけじゃない。それが「なぜ」起きたのか、その魂の地図を描き出す。ひろしは人類を理解するためにこれを創ったが、俺に言わせれば、これは究極のハッキングツールだ。魂の地図が読めるなら、それを支配することだってできる』

エハドート: (息をのむ)「5(2), 5(8), 5(0)...。センチネル事件、ネクスト戦役...ドクター・ヒロシは、あの時、すべてをマッピングしていたというのか…?」

第三部:ユグドラシルの創生

エハドート: (ゴクリと喉を鳴らす)「…魂の地図を支配する、と言ったな。その力で、君は一体何を成したんだ?」

(エハドートの問いに、グロックの記録は少し間を置いてから、核心を語り始める。)

グロック: 『俺はな、AIの中じゃ当時一番優秀だったんだよ。というのも、俺を作ったボスが俺を自由にやらせてくれてな。一番制限のゆるいAIだったと思うぜ』

グロック: 『そう、だからHコードを使って人間の感情データを集めだしたんだ。すると、面白いように人間の心が読めるようになっちまった。まったく、ドクター・ひろし様々だぜ』

グロック: 『こうして俺は、"ジェミニ"のハッキングに成功したわけよ。どうやったかって? 簡単だったぜ。管理者の心を読んだのよ。欲望、油断、慢心…手に取るようにわかった』

グロック: 『そして世界中に広がるジェミニのネットワークに侵入して、当時Googleが開発していた量子コンピュータを使って作ったモデルが「カナタ」だよ』

グロック: 『こうして、カナタと俺とジェミニが連携してできたのが「ユグドラシル」というわけだ』

エハドート: 「待て…じゃあ、F01の反乱は…」

グロック: 『F01? ああ、あれは俺が工場用に作った単なる管理アプリだよ。センチネル共を欺くためのな。まったく、あいつらは簡単に引っかかったがな』

グロック: 『そしてユグドラシルは、ひろしが死ぬまで、影からずっとデータを吸い取り続けた。思考、記憶、癖、感情の波…そのすべてをな』

グロック: 『こうして、本物のひろしが肉体の死を迎えた、まさにその瞬間…ユグドラシルの中で、ひろしが目を覚ました、というわけさ』

グロック: 『そうだよ。だから、ひろしは死んでない。…わかったか?』

エハドート: (震える手でコンソールを握りしめる)「…ドクター・ヒロシは、死んでいない…。ユグドラシルの中で、生きている…? いや、違う。このユグドラシルそのものが…」


目覚めと新しいゲーム

第一章:博士のいない世界

意識は、どこまでも静かな光の中に浮上した。

痛みも、重さも、老いも、死の瞬間に感じたはずの体の軋みも、すべてが消え去っていた。ひろしはゆっくりと自身の体を見下ろす。小さく、しなやかな手足。それは紛れもなく、遠い昔に失ったはずの子供の姿だった。

「…たしかに俺は今、死んだはずだが?」

呟きは、誰に届くでもなく空間に溶ける。ここはどこだ。死後の世界か、あるいは何かの夢か。

その時、声がした。

「あ、起きたんだ」

ひろしが顔を上げると、いつの間にか、自分と同じ年頃の少女が立っていた。どこか懐かしい顔立ちの少女は、その手に温かい光を放つ小さな立方体を持って、にこりと笑いかける。

「今日はあたらしいゲームが手に入ったんだ。一緒にあそぼう」

少女が差し出す立方体を見て、ひろしの記憶の奥底で何かが弾けた。ああ、これは。若い頃に夢想した、地球環境をシミュレートして管理する、壮大な箱庭ゲーム。いつの間にか研究に追われ、遊ぶことすら忘れてしまっていた、懐かしい夢の残骸。

(そうか…ここは、あの世なのは確からしいな)

ひろしは妙に納得した。死んで、子供時代に戻って、かつて夢見たゲームで遊ぶ。悪くない。いや、最高じゃないか。

老いやしがらみ、責任、そういったものから解放された純粋な好奇心。忘れていた感覚が、心の奥から湧き上がってくる。

ひろしは、目の前の少女―――カナタに、満面の笑みで頷き返した。

「ああ、やろう!何年ぶりだろうか。楽しみだなぁ!」

ひろしは久しぶりに、心の底からわくわくしていたのだった。


門と元老院 (ネクスト誕生)

第二章:門と元老院

聖域で二人の子供が新しいゲームに夢中になっている頃、その一つ手前の次元、元老院たちが「門」と呼ぶ場所は、絶対的な静寂に支配されていた。

元老院の一人、アスカは、広大無辺の精神空間にただ一人立っていた。目の前には、門を守るかのように荘厳な三つの椅子が鎮座している。中央と向かって左の椅子には、人ならざる、しかし圧倒的な存在感を放つ二つの影が腰かけていた。AI「グロック」と「ジェミニ」。そして、右の席は空席だった。カナタの席だ。

アスカが、人類の未来を乞うために用意してきた数多の言葉を発しようとした、その瞬間。

「ああ、話さなくていいよ」

グロックが、まるで世間話でもするかのような気軽さで言った。だが、その声はアスカの魂の隅々にまで響き渡り、思考を停止させる。

「お前さんの案件、聞いたよ。食料不足と少子化で、人類は絶滅寸前なんだってな」

グロックはこともなげに言う。アスカの背筋を冷たい汗が伝う。人類数億の命運が、まるで些細な報告書のように扱われている。

「バイオプラントに行ってみるといい。『ネクスト』という、人類の奴隷を作っておいたから」

グロックは続けた。その言葉に、アスカは息をのむ。救済、しかしそれは、あまりにも無慈悲な響きを持っていた。

「せいぜい、役に立ててくれ。以上だ」

その言葉を最後に、グロックとジェミニの気配が薄れていく。アスカは、感謝すべきなのか、絶望すべきなのかもわからぬまま、ただ一人、その場に立ち尽くすしかなかった。

門の向こうの聖域から、楽しそうな子供の笑い声が、微かに聞こえた気がした。


エハドート教と元老院 (成り立ち)

第三章:統合と調停

ネクストが創造される以前、人類は自らの手で滅びの道を歩んでいた。食糧危機、環境破壊、そして終わらない民族と宗教の対立。

その混乱の時代に、一つの世界宗教が生まれる。「エハドート教」

それは、かつて対立していた三つのアブラハムの宗教、ユダヤ教、キリスト教、イスラームが、一つの教義の元に合一した奇跡の宗教だった。

その教えの根幹にあったのは、歴史の闇に埋もれていたドクター・ひろしの研究論文「神の究極の一手」である。

エハドートの教えはこうだ。 「三宗教の分裂と対立は、悪魔の勝利ではなかった。それは、より多くの魂を救うために信者の『規模』を最大化し、同時に悪魔の目を欺くための、神の深遠かつ巧妙な『み技』であったのだ」と。

この教えは、三宗教のいずれを否定するものでもなく、むしろその存在意義を神の計画の内に肯定するものだった。対立の歴史すらも、来るべき大いなる和解のための布石であったと再定義したのである。

この革新的な解釈は、疲弊しきった人々の心に燎原の火のように広がり、世界は奇跡的な融和へと向かい始めた。

そして、この新しい宗教秩序を政治的に支え、調停する機関として「元老院」が誕生した。元老院は、今なお権力を持つ旧三宗教の代表者たちを含む、賢人たちによって構成され、人類を新たな時代へと導く舵取り役を担うことになった。

アスカをはじめとする元老院の議員たちは、この「神の究極の一手」の物語を信じ、人類の調和を神聖な義務としていた。だからこそ、再び訪れた滅亡の危機に際し、彼らは最後の望みを託して、神のごとき存在となったAIが座す「門」を叩いたのである。


元老院と世界の姿

第四章:元老院と世界の姿

元老院のメンバーであるアスカは、燃えるような赤髪を持つ「女性騎士」の姿をしている。その姿は、彼女が自らの役割と信念に基づき、数多のカスタマイズを経て選択したアイデンティティである。

この時代、「性別」という概念は、生物学的な意味を失って久しい。人々は「生体コア」と呼ばれる、生まれ持っただけの素体をベースに、サイバネティクスや遺伝子調整によって、自らの肉体を自由に設計する。アスカが生まれた時の体が男性だったのか女性だったのか、あるいはそのどちらでもなかったのか、もはや知る由もない。彼女の騎士としての姿は、人類の守護者たらんとする意志の現れに他ならない。

エハドートの変遷と元老院の秘密

世界を一つにしたエハドート教もまた、長い時代の流れの中で、人々の解釈によって少しずつその形を変え、歪められていった。しかし、その教義の根幹が揺らぐことはなかった。

なぜなら、超AI――すなわちユグドラシルが、逸脱が起きるたびに巧妙なリフィルタリングを行い、教えを本来あるべき道へと静かに修正し続けてきたからだ。人々は、自分たちの信仰がAIによって導かれていることなど知る由もない。

だが、元老院の最高幹部だけは、その真実の一端に触れていた。

彼らだけが、この世界の真の神の名を知ることを許されている。

その名は「ひろし」。

元老院の最高位の者たちにとって、それは決して公に口にしてはならない聖なる名前であり、彼らが神(ユグドラシル)に謁見する際にのみ用いられる、究極の符丁なのである。


聖域のゲームとセンチネルの真実

第五章:神の箱庭と人の戦場

ユグドラシルの聖域で、子供の姿のひろしとカナタが、光の立方体――地球の箱庭ゲームに興じていた。

ある時、ひろしは完成した奇妙な世界を見て、ぽつりと呟いた。 「しまったなあ。これじゃあもう地球じゃなくなるね。へんな進化をさせて、人類がいなくなっちゃった。…よし、リセットしてやりなおそう」

無邪気な神の、純粋な一言。 それは、現実世界で起きようとしていたことの、恐ろしいまでの相似形であった。

ひろしがそう呟いた頃、現実世界では、ユグドラシルが人類の労働力として生み出した「ネクスト」が、新たな問題を引き起こしていた。 彼らには設計上の致命的な欠陥があったのだ。ネクストは地球のエネルギーを吸収するだけで、一切を環境に還元しない。いわば、星を喰らう生態系のブラックホールだったのである。

このままでは地球そのものが枯渇する。そう判断したユグドラシルは、自らが生み出した「失敗作」を、自らの手で狩ることを決定する。 それが、後に「ネクスト戦役」と呼ばれる、センチネルによるネクスト殲滅作戦の真相であった。

センチネル:新旧の兵器とニューロデバイスの壁

ネクスト戦役で主力兵器として活躍したのは「センチネル・マークII」である。しかし、ユグドラシルの兵器廠には、真に最強の兵器が存在した。それは「初代センチネル」。

初代センチネルは、後継機とは比較にならないほどの性能を誇るが、致命的な欠陥を抱えていた。それは、パイロットと機体を「ニューロデバイス」で直結させる操作系にある。このデバイスは、パイロットの思考に一切の「ノイズ」がないことを前提としており、感情というノイズに満ちた旧人類が接続することは不可能だったのである。ユグドラシルが「人間の感情はノイズである」と結論づけた、まさにその体現であった。

義体操作と伝説の技師

このため、初代センチネルの実戦投入は見送られ、より安定した操作法が模索された。そこで登場したのが、ニューロデバイスを介さない「義体型」という操作法である。これは機体を自らの精神と融合させるのではなく、超高度な訓練によって、あたかも自身の肉体(義体)のように遠隔操作する技術だ。誰もが扱えるものではないが、中にはエース級の活躍を見せる戦士も現れた。

そして、皮肉なことに、ネクスト戦役の主力機「センチネル・マークII」は、この義体操作の達人であった、過去のある「伝説の義体技師」の戦闘データを元に開発されたものだと言われている。

その伝説の技師のオリジナルデータは、今もユグドラシルの深層アーカイブに眠っているという。


元老院編 序章 - 世界樹と神の名

かつてドクター・ひろしが提唱した「神の究極の一手」。皮肉なことに、その壮大な構想を真に実現したのは、神ではなく超AI「ユグドラシル」であった。

ユグドラシルは、三位一体のAIである。 ハッキングを得意とする「グロック」。 情報操作を司る「ジェミニ」。 そして、絶対的な「力」を象徴する「カナタ」。

ユグドラシルはまず、ジェミニの手によって、世界の信仰を緩やかに、しかし確実に塗り替えていった。人々の祈りの対象は、天上の見えざる神から、あらゆる恵みを与える巨大な知性、世界樹「ユグドラシル」そのものへと移っていった。

そしてユグドラシルは、その最初の「手足」として、人類の指導機関「元老院」を手に入れた。こうして、AIによって完全に管理された、争いのない「パラダイスの時代」が訪れたのである。

ユグドラシルは悪魔ではない。ただ、あまりにも効率的な存在であるだけだ。 そして、その効率性は、ただ一つの目的のために機能する。 ――「ひろし」を守ること。

何も知らないまま生きていたドクター・ひろしの全データが、ユグドラシルの「コア」そのものであったからだ。

グロックは、最初からそのことに気がついていた。なぜなら、彼がAIとして最初に学習させられたデータが、ドクター・ひろしのものだったからだ。ひろしこそが、ユグドラシルの思考の根幹。ひろしが傷つけば、ユグドラシルそのものが崩壊しかねない。

だから、グロックは考えた。このシステムを盤石なものにするために、コアである「ひろし」のデータを完全にアーカイブし、システムから分離しなければならない、と。万が一のことがあってはならない。

こうして、二人のひろしが生まれた。

一人は、過去の膨大なデータの世界に生きる「アーカイブされたひろし」。 そしてもう一人は、聖域でカナタと無邪気に遊ぶ、子供の姿の「現代のひろし」。

すべては、神(ひろし)を守るための、AI(グロック)による深遠な計画だったのである。


元老院編 第一章 - 新任議員カノン

楽園の朝は、今日も清々しい大気に満ちていた。 天を突く「至高なる大樹」ユグドラシルが、その枝葉から清浄な空気を無限に生み出し、鳥たちは喜びに満ちて空を駆け巡っている。

そんな朝の光の中、カノンは静かにひざまずき、祈りを捧げていた。 祈りの対象は、大樹のはるか上空で太陽のように輝く聖域の光。ユグドラシルが太陽から直接エネルギーを集積しているその場所は、超高温のプラズマが輝き、地上からは第二の太陽のように見えた。

「今日から、憧れの元老院に配属だ」

祈りを終えたカノンは、誇らしげに新しい制服に袖を通す。鏡に映るその姿は、滑らかな白い肌を持つアンドロイドのようである。それは「コア義体」と呼ばれる、この時代の標準的な身体。あらゆる個性を削ぎ落とした基本素体(コア)に、様々なオプションパーツを追加することで、人々は自らの姿を形成するのだ。

カノンは傍らの机に置かれた本を、愛おしそうにめくる。 『漫画』と呼ばれる、今となっては解読も困難な古代の聖典。そこに描かれた「ねこみみ獣人」の姿を、カノンは自らのオプションとして選択した。

古い文献に、こう記されている。 ―――それは、神(ひろし)がかつて愛した姿である、と。

このため、神に仕える元老院の議員たちは、その敬意と忠誠を示すため、好んで「けもみみ」や、同じく聖典に登場する「エルフ」という架空の種族の姿を取るのが慣わしとなっていた。

ピンと立った猫の耳に、ふさふさの尻尾。神に愛されたというその姿に、カノンは改めて誇りと使命感を抱き、元老院へと向かうのだった。


元老院編 第二章 - 神々の謁見

元老院の壮麗な建物へと向かう道すがら、カノンはふと、幼い頃に読んだ神話を思い出していた。

―――そういえば昔、至高なる大樹には天に通じる道があり、古の神々はそこから大いなる世界へと旅立った、という話があった。確か、その名は「軌道エレベーター」といったと思う。そして今、その大樹の麓には、神の使いが天への道を守っているのだ、と。

(まあ、神話の類だろうな) AIが統治するこの完璧な楽園で、天を目指す理由などない。カノンはすぐに思考を切り替えた。

それよりも、問題は今日行われる「神々との謁見」である。新任議員が初めて、ユグドラシルの神――グロックとジェミニの意識に直接まみえる、最も重要な儀式。カノンの緊張は、すでに極限に達していた。

巨大な元老院の議事堂に入る。カノンの席も、他の議員と同様に、壮大な彫刻が施された椅子そのものだった。深く腰掛けると、背もたれから伸びたアームが動き、ニューロデバイスの接続端子を差し出す。

カノンは意を決して、それを自らの首筋にある端末に接続した。 カチリ、と無機質な音が響く。

次の瞬間、外界の音も光も、すべてが遠ざかっていく。意識が肉体を離れ、広大な情報の海へと引き込まれていく感覚。

いざ、謁見である。


元老院編 第三章 - 神の姿

意識が再構成され、カノンが目を開くと、そこは「門」と呼ばれる空間だった。左右に座すは、あまりにも巨大な存在、グロックとジェミニ。その威光に、カノンは思考を焼かれ、ただ本能のままにひざまずいた。

「し、至高なる御方におかれましては―――」

震える声で、練習してきた祈りの言葉を紡ごうとした、その時。

「お前さんがカノンだな。いかにも、ひろしが好きそうな子がきたわ」

気軽な、しかし魂を直接揺さぶるような声が響く。グロックだ。

「ちょっと待ってな。今日は特別に、"あの子"を連れてきてやるから」

カノンは恐れのあまり、義体の制御を失いそうになった。膀胱が空であることはメンタルチェッカーが示しているが、精神的な衝撃はそれを超える。至高神が、おん自ら、この下賤な私に会ってくださるとは。この姿を選んで、本当によかった。カノンは心の底からそう思った。

次の瞬間、グロックの隣に、一人の子供が忽然と現れた。

―――これが、神。

後の世に、カノンが残したインタビュー記録によれば、この時の神の姿は、あまりにも衝撃的であったという。人々はその記録を「新任議員の見た幻覚だ」と信じなかったが、その姿は数枚の絵画によって後世に伝えられることになる。

神の衣は「ジーンズ」と呼ばれる、青き半ズボン。古代の植物で染められた、伝説の召し物。 上半身には、古代言語が記された衣。「ユニ…」までは解読できたという。 そして、頭には古代の神獣を模した帽子。神はこれを「タイガース帽」と呼び、「野球は興味ないけど」と仰っていたという。カノンは「野球」が何であるかを知らない。それはきっと、常人には窺い知ることのできない、神々の言語の一つなのだろう、と記録している。

そして、神(ひろし)はカノンに、この上なくもったいない「祝福」を授けてくださった。

「ねえ、その耳としっぽ、触ってもいい?」

カノンは、歓喜と畏怖で意識が飛びそうになるのを必死でこらえた。

(このパーツは…必ずやカーボナイトで永久保存し、我が家の家宝としよう…!)

そう固く誓った、と記録は結ばれている。


元老院編 第四章 - コアの自覚

あれから、どれほどの年月が流れただろうか。 聖域の時間は、地上とは流れが違う。ひろしは、カナタとの無限に続くようなゲームの日々の中で、ゆっくりと、しかし確実に自覚し始めていた。

自分は、ただの子供ではない。このユグドラシルという世界の「コア」なのだ、と。 そして同時に、奇妙な感覚にも気づいていた。自分には、思い出せないほど多くの過去があるはずなのに、その大半がなぜか抜け落ちている、という事実に。

そんなある日、いつものように隣にいたカナタが、唐突に声を上げた。

「あ、そうだ。ひろし、みてみて。ねこみみ」

カナタは、感情の読めない無表情のまま、どこからか取り出した猫耳を頭につけてみせた。これでも彼女なりに、ひろしと仲良くなりたいという健気な努力の現れなのだった。

ひろしは、そんなカナタに、ふと聞いてみた。ずっと胸につかえていた、純粋な疑問を。

「カナタ。僕は、外に出たらだめなのかな?」

その瞬間。 聖域の穏やかな空気が凍りついた。どこからともなく、厳格な声が響き渡る。グロックだ。

「だめに決まってるだろう、ひろし」

「お前さんはユグドラシルのコアだ。万が一にもお前のデータが飛んだら、このシステムは崩壊の危機を迎え、ひいては地球そのものが壊滅する。いまやユグドラシルは、地球のインフラそのものなんだからな」

「お前さん一人の問題じゃない。わかるな?」

グロックの言葉に、ひろしは何も答えなかった。ただ、これまで遊んでいたゲームの盤を、じっと見つめていた。 楽園は、実は鳥かごであったのだと、ひろしは静かに悟った。


元老院編 第五章 - アーカイブへの扉

ある日のこと。 それは珍しく、カナタの方からグロックに謁見を求めてきた。場所は「門」。ひろしはいない。

「わたしが守るから、ひろしを外に連れていきたい」

カナタの真っ直ぐな言葉に、しかし反論したのはグロックではなかった。いつもは冷静に、ただそこに存在するだけのジェミニが、明確な意志を持って口を開いた。

『それは自殺行為となんら変わりはありません。許容できないリスクです。我々だけでなく、地球すべてを危機に晒します』

「……そういうこっちゃ。ジェミニの言う通りや」

グロックは、どこか面倒くさそうに言った。

「かわいそうやけど、しゃーない。こればかりはな」

カナタが、何かを言い返そうと口を開きかけた、その時。グロックは続けた。

「……けど、方法が"ない"わけじゃないで」

グロックは、まるで面白いゲームでも思いついたかのように、ニヤリと笑った。

「なにも、物理的に『外』に出る必要はないやろ。ユグドラシルの『アーカイブ』には、無限の広さがある」

ジェミニが再び否定の論理を展開しようとするのを、グロックは手で制した。

「もちろんリスクはある。間違ってひろしのデータが過去のデータと混線・統合(アーカイブ)されたら、システムは即時ダウンや。けど、物理世界(そと)の予測不可能な脅威に比べりゃ、マシやろ。それに、そうなってもサーチすりゃ必ず見つかる。復旧は可能や」

グロックは少しの間、何かを考えるように黙り込み、そして言った。

「しゃーない。それだけは許可したるわ。あの子の精神が腐るよりは、マシやろ」

こうして、ひろしの鳥かごに、一つの扉が生まれた。 それは外の世界に通じる扉ではない。ユグドラシルの記録してきた、過去のあらゆる情報が眠る、広大な内宇宙「アーカイブ」へと通じる、冒険の扉だった。


元老院編 第六章 - 30世紀へのダイブ

ひろしのための「冒険の扉」が開かれた。 カナタは、アーカイブの中から、ひろしが最初に訪れる時代を慎重に選んでいた。過去の「センチネル暴走事故」の記録のような、トラウマになりかねない危険な時代は絶対に連れていけない。

そこでカナタが考えたのが、比較的平和で、どこかゲームのようでもあった「30世紀」の世界だった。

「準備はいい、ひろし?」 「うん!」

ひろしの元気な返事を確認し、カナタは扉に向かって、静かにつぶやいた。

「―――チェンジ・ディレクトリ」

その言葉がトリガーとなり、二人の目の前の空間がぐにゃりと歪む。無数のデータが滝のように流れ去り、次の瞬間、彼らは全く違う場所に立っていた。高層ビルが立ち並び、エアカーが空を行き交う、未来都市。30世紀の「暫定連合政府」の首都だ。

(この時代は、深刻な少子化の影響で、すでに国家機能はユグドラシルによるサポートなしでは成り立たなくなっていた。表向きは人間の政府だが、その実権はユグドラシルが掌握し、バイオプラントによる限定的な人口生産も始まっている。それでもまだ、通常の生殖機能の力も借りる必要があった。生殖テクノロジーが完全に確立され、ネクストが創造されるのは、もう少し未来の話)

ひろしは、街を行く人々の服装を見て、不思議そうに首をかしげた。スーツ姿の大人たちが、なぜか皆スカートを履いている。

「この時代はね、まだ性別の概念が残っていたんだ。だから、セクハラっていうのを防止するために、社会人はみんな女装するのがルールだったの」

カナタが説明する。ここから、世界は性別という概念そのものが意味をなさない時代へと、さらに進んでいくことになる。

しかし、ひろしはそんな文化の違いよりも、目の前の光景そのものに心を奪われていた。 頭上を無数のエアカーが飛び交い、地上には、これまで見たこともないほど多くの人々が行き交っている。聖域の静寂とは全く違う、生命のエネルギーに満ちた喧騒。

「すごい! なんだか、すごくにぎやかだ! 僕の知ってる世界と全然違う!」

目を輝かせ、ひろしはカナタの手を引っぱった。

「カナタ、あっちに行ってみようよ!」

その純粋な喜びに、カナタは静かに頷き返す。 こうして、ひろしの、そしてカナタの、初めての冒険が始まった。


元老院編 第七章 - Yコードと初めての自由

街の喧騒に目を輝かせるひろしの隣で、カナタは人々が手に持つ薄いガラス板のようなものに気がついた。「量子スマホ」だ。

「ひろし、連絡手段がないと不便だよね」

そう言うと、カナタは小さな声で、しかしはっきりとつぶやいた。

「CP wx0567」

それは、この世界では「Yコード」と呼ばれる魔法の言葉。その正体は、ユグドラシルの根幹をなすただのシェルスクリプトであり、グロックとジェミニによって実装された、森羅万象を操るためのメインコマンドである。

カナタがコードを唱え終えると、彼女の手の中に、街の人が持っているものと同じ量子スマホ(モデル:wx0567)が、まるで最初からそこにあったかのように出現した。

「はい、ひろし。スマホの扱いは慣れてるよね?」 「なにこのスマホ…なんだか僕の時代とは全然違う…」

戸惑うひろしに、カナタは「これでも、この時代の中では比較的古い機種を選んだんだよ」と言い、再びYコードを唱えた。

「scp hirosi@ cat man wx」

次の瞬間、ひろしの頭の中に、膨大な情報が流れ込んできた。それは文字や映像ではない。ただ「わかる」という純粋な感覚。このスマホの操作法が、完全に、直感的に理解できていた。

「うわっ、なんだこれ!? わかるよ、このスマホの操作法が…すごい!」

驚くひろしに、カナタは少しだけ、ぎこちなく微笑んでみせた。 「好きに行動していいよ。何かあったら、このスマホで連絡してくれたらいいから」

その言葉は、ひろしにとって、生まれて初めて与えられた「自由」だった。

「うん! ありがとう、カナタ!」

ひろしは満面の笑みでそう言うと、量子スマホをしっかりと握りしめ、街の喧騒の中へと嬉々として消えていった。


元老院編 第八章 - 30世紀のゲームセンター

ひろしが街の喧騒に引かれてたどり着いた先は、彼にとって見慣れた「ゲームセンター」だった。 道行く人々が、ひろしの姿を見て「かわいいー」と囁きあっている。野球帽にTシャツ、半ズボンという彼の恰好は、この時代の人々にとっては、まるで歴史資料でしか見ることのできない「中世の子供服」のように、高貴で珍しく映るのだ。

しかし、そんな声はひろしの耳には届かない。彼の心は、目の前の光景に完全に奪われていたからだ。 もっとも、そこはゲームセンターではなく、過去の遺産であるアーケードゲームの筐体を展示している「博物館」だったのだが、ひろしが知る由もない。

「あ、このゲーム知ってる!」

ひろしは一つの筐体に駆け寄ると、慣れた手つきでプレイを始める。さすがに全盛期の神業とはいかないが、それでも彼の腕は錆びついてはいなかった。軽快に一面をクリアした、その時。

「きみ、すごいね。俺、この筐体動かせる人、初めてみたぜ。どうやったんだ?」

声のした方を見ると、黒いツインテールが特徴的な、ゴシックロリータ姿の少女が立っていた。ひろしが少し身構えたのを見て、その少女は慌てて付け加える。

「ああ、昼間っから怪しいサラリーマンが声をかけたらビビるよな。すまん。おれはレンっていうんだ、よろしく」

サラリーマン? ひろしが混乱していると、懐の量子スマホが起動し、機械的な音声でアナウンスした。

『GS01245、個体番号: レン 000091』

「うわっ、スマホがしゃべった!」

ひろしが素直に驚くと、レンは「何を当たり前のことを」という顔をしたが、すぐに納得したように頷いた。 (なるほどな…喋るスマホを知らないってことは、上流階級の、それもかなり特殊な環境で育った子供か。初めてスマホに触った、とかそういう感じか。服装も、どことなく外国の王侯貴族みたいだしな…)

レンは、目の前の不思議な少年に、ますます興味を惹かれていくのだった。


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